大事な話をしようとしすぎない

最近、SNSを開くのが少ししんどくなっています。
仕事でも発信でも日常的に使っているので、いまさら何を言っているんだという話なのですが、アプリを開けば、誰かが誰かを批判していたり、責任を問い詰めていたり、そんなものばっかりが目に入る。社会に対して批判的な視点を持つことは悪いことではありません。ただ、怒りや強い言葉ほど反応を集めやすいアルゴリズムのなかで、人と人をつなぐはずだった場所が、論点ごとに誰かの反応を確認しては敵味方の線引きをする場所になっているように感じることがあります。
同じ言葉を使っているのに、話が通じなくなっていく。
なんだかバベルの塔みたいだな、と少し気持ちが暗くなります。
「観察」は会話のなかにもある
子育ての話をするとき、私は「観察が大事だ」とよく言います。親の思う答えを押し付けるのではなく、まずは子どもをよく見て、そこからその子なりの答えと思えるものを見つける。繰り返し言い続けていることのひとつです。
ただ、この「観察」という言葉も、少し誤解されやすいのかもしれません。じっと見ていることだけが観察ではないのです。会話をしながら彼らの思考や興味の輪郭をとらえていくことも、かなり大事な観察のアプローチです。
子どもと話しているなかで、気づくことはたくさんあります。「この話題になると急に饒舌になるな」とか「この話題にはあまり乗ってこないな…」とか。会話の内容だけではなく、テンポや表情や、ちょっとした間も含めて、相手の内側が少し見えてくる。自分にとって親子の会話は、そういう観察の一部なのです。
ところが、気持ちに余裕がなくなると、この親子の会話は一気に痩せていきます。
進捗やタスクを確認するような“報連相”ばかりになり、なんでも気楽に話すモードではなくなっていく。生活をきちんと運営するために必要なコミュニケーションばかりしていると、子どもの「それ以外」の部分がだんだん見えなくなっていく。これは結構怖いことだと思っています。
「対話」の手前にあるもの
最近、友人にすすめてもらった村上靖彦さんの『生き延びるための会話』を読んでいて、考えさせられた一節がありました。
「対話の手前にある日常会話こそが、対話を支えているのではないか。あらたまった対話よりも前に、毎日起きてから夜寝るまでのあいだどこでも行われているような会話こそ、僕たちの生存すなわち〈生きるスペース〉を確保することにかかわるのではないか」
教育の世界では「対話が大事だ」とよく言われます。
たがいの考えを聞き合い、共通点や違いを確認する、そして、どこまでなら手を握れるかを探る。でも対話って、ここに書かれているように「あらたまった」ものなんですよね。対話にはたいてい目的やテーマがあり、話すべきことがあり、そこから外れすぎれば本題に戻る。つまり対話は、ある意味では生産性が求められるコミュニケーションなのです。
それよりも、人と人の関係の土台になるのは、もっと雑然とした「会話」ではないか。目的もなく、結論もなく、話がそれてもいい。話したくなければ黙っていてもいい。何の役にも立たない話をする。そうした会話ができる相手でなければ、ちゃんとした対話など成立しないのではないかと、この本は問いかけます。
これを読んだとき、かなり腑に落ちました。
どうでもいい話をしているからこそ、「そういえば最近、学校どう?」という話が自然にできることがあります。何か聞き出そうとしているわけでもないのに、「あれ、今日はちょっと元気がないな」と気づくこともあります。
大事な話をするために、大事な話をしようとしすぎない。
親子のあいだでも、案外こういうことがあるように思います。
2秒の動画に映る「気配」
最近、わが家では「Setlog」というアプリを、自分と妻、そして地方で暮らす娘の3人で使っています。2秒ほどの短い動画を、小さなグループのなかで送り合うアプリです。
送っているのは、本当にしょうもない日常の一コマです。
歩いている道。今日のお昼ご飯。車で信号待ちをしている景色。娘からは、学校から寮に戻ったときの部屋の様子や、ノートの端に描いたいたずら書きなんかが送られてきます。
それにスタンプを押したり、「何これ」「うまそう」と短くコメントをつけたりする。
ほとんど情報価値はありません。ビジネスの世界なら、真っ先に削減対象になるコミュニケーションだと思います。

でも、不思議なことに、これをやっていると少し距離が近く感じるんですよね。
「ああ、いまここにいるんだな」
「今日はこんな感じなんだな」
重要な報告があるわけでも、深い対話をしているわけでもない。ただ、相手の生活の「気配」がなんとなく見える。この気配こそが家族にはかなり大事なのではないかと思っています。
子どもが大きくなると、一緒に暮らしていても別々に過ごす時間が増えます。まして、わが家のように進学などで離れて暮らすようになればなおさらです。
そんななか、他愛もないコミュニケーションをどうやって残すか。
別にSetlogでなくてもかまいません。
役に立たない会話や、くだらない冗談。
一緒にテレビを見てもいいし、ご飯を食べながら最近の流行の話をしてもいい。
そういうものが積み重なっているから、その人の普段の状態がなんとなくわかる。そして本当に何かがあったとき、「あれ、いつもと違うな」と気づける。
ポイントがあるとすれば、その時間に成果を求めすぎないことなのだと思います。
最近、教育の話をしていると、なんでもかんでも「意味のあること」にしすぎじゃないかと思うことがあります。遊びを探究につなげよう。体験を学びに変えよう。それがすべて悪いわけではありませんが、何でも意味のあるものに変換しようとする姿勢は少し窮屈です。親との会話にも毎回何か意図があるとわかれば、子どもだって構えて当然です。コミュニケーションを増やそうとしているのに、かえって子どものことが見えなくなる。そんな逆転が起きてしまっては不幸です。
家族のあいだに必要なのは、意味のある話を増やすことだけではない。
むしろ、意味のない話をしていられる余白をどう残しておくか。
最近は、そのほうが気になっています。
聞きたいことを、直接聞かないために
では、子どものことを知りたいときに、自分があえて真正面から聞かないためにやっていることを3つ挙げてみます。
