子どもの好奇心に教科名はついていない

国語や算数の授業時数を減らし、情報教育を拡充する。次期学習指導要領をめぐるニュースが議論を呼びました。でも、子どもの学びは、教科ごとに分かれているのでしょうか。学校と家庭、それぞれの役割から考えます。
knockout 2026.10.12
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「そもそも子どもの学びって、そんなにきれいに教科ごとに分かれているんだろうか?」

今回、炎上したニュースを見ながら、私がずっと思っていたのはこのことでした。

***

2030年度以降に始まる次の学習指導要領で、情報教育を拡充する一方、国語や算数・数学などの授業時数を3〜4%ほど減らす、というニュースがSNSを駆け巡ったのは9月25日のこと。

案の定、タイムラインでは、

「国語や算数を減らして大丈夫なのか、読み書きそろばんこそ学力の基礎ではないか」
「情報教育より、まず国語をちゃんとやってほしい」
「削るんだったら、まずは小学校の英語から削れ」

といった否定的な反応がかなり目につきました。


見出しだけ見れば、そう思うのも無理はありません。

「情報教育を増やすために国語と算数を減らします」と言われたら、いやいや、待てよ。そこ削るの?と思うのは当然です。

ただ、少し中身を見ると、そこまで単純な話じゃないことがわかります。


まず、国語と算数・数学だけが狙い撃ちされるわけではなく、一部を除いて各教科の授業時数を3〜4%程度ずつ減らしていく(原則的には)。

また、情報教育も、すべての学習内容が新しく追加されるわけではなく、これまでも、いろいろな教科の中でやってきた、「情報を集める」「コンピュータを使う」「データを整理する」、といった学習内容を「情報」という領域にある程度集約し、体系的に学んでいこうという話です。

なので、「国語や算数の時間を削って、そのぶんパソコンの勉強をする」という方針ではないんですよね。

なんだか最近は、大手メディアのニュースでさえもアテンションエコノミーに飲み込まれていて、あえて賛否両論巻き起こすような見出しをつけているように感じます。

国語か、情報か。
基礎学力か、デジタルか。

こんな対立構図にしがちなんですが、実際には、そこまで単純な二者択一ではない。国民の理解や納得に必要となる、まっとうな対話や合意形成から遠のいているようでとても悲しくなります。

***


情報教育の拡充、どう受け止める?


今回、示された改革の方針に対する個人的な立場を先にお伝えしますと、今のところは判断を留保しています。

生成AIがこれだけ当たり前になっているなかで、小中学生から情報教育をちゃんとやること自体は大切なことだと思っています。情報を取り扱うスキルやリテラシーは、国語や算数だけではなく、社会や理科や探究でも使うものなので、学びの共通基盤として体系的に学ぶ、という考え方は賛同できます。


一方で、心配している点もあります。大きくふたつです。

まずひとつめは、カリキュラムオーバーロードの問題。

今回「情報」の領域が新規追加になることが話題になっていますが、仮にそれがなかったとしても、何かを減らさなきゃいけない段階には来ています。小中学生の時間割も学ばなければならない内容も、もういっぱいいっぱいです。これがひとつめ。

もうひとつは、小学校はとくになのですが、これ、実運用がとても難しそうなんですよね。

日本も一時期に比べて学級サイズが小さくなりましたが、まだまだ先生に対して児童の数が多すぎる。その点も心配です。

30人くらいの子どもが一斉に端末を開けば、

ログインできない。つながらない。画面が違う。間違えて消してしまった、、、みたいなことは当然起きる。隠れてこっそりゲームしてたりする児童生徒もいることでしょう。

そんななか、担任の先生や専科の先生が一人で見ながら、丁寧に授業展開をする。しかも、各教科の共通基盤になるようなスキルを全員に身につけさせるってのは、理念は分かりますが、運用は相当大変だろうなと思います。


これが、現時点での私の受け止めです。


教科の境目と、学びの境界


それと同時に、思うことがあります。

冒頭に掲げた問い、

「そもそも子どもの学びって、そんなにきれいに教科ごとに分かれているんだろうか?」

です。

教科ごとの時数の増減が議論になるのを見ながら、でも、子どもは本当に、教科の境界線を意識しながら学んでいるのだろうか、と。


昔、うちの子どもたちが小学生だった頃、「これはいい授業だなあ」と思ったものがありました。

日時計をつくる授業です。

まず図工の時間に、自分オリジナルの日時計をつくる。ちょうどその頃、理科では太陽の動きを勉強していて、自分でつくった日時計を外に持っていって、影がどう動いていくのかを見る。さらに表やグラフを習っていた算数の時間には、観察した結果を表にしたり、グラフにしたりする。

これ、すごくよくないですか。

同じ日時計という題材を用いながら、図工にもなり、理科にもなり、算数にもなっている。

でも、子どもの側はたぶん、そんな教科の枠組みを意識していないんですよね。

単に、自分で日時計をつくった。それを外に持っていったら影が動いた。なんでだろうと思う。じゃあ記録してみよう。そこから何かわかるかな…?

そうやって学びがつながっていく。


国語だってそうです。

昔はわらべうたのように、リズムに乗せて何度も繰り返しながら、体に入れていくような学び方がありました。それは国語でもあるけれど、リズムという意味では音楽でもある。遊びながら体を動かして覚えるなら、体育的な要素だってある。

小学校の低学年くらいなら、国語と音楽と体育の境目って、そんなにはっきり分かれるものなんだろうか、とも思います。

高学年でも、社会科で米作りを学びながら、家庭科で実際に米を使って調理する。そうしたつながりのなかで、社会で学んだ知識と、家庭科での体験が重なり合い、理解のされ方も変わってくる。


子どもの好奇心って、そもそもそんなに教科ごとの縦割りになっていないと思うんです。

好奇心には、教科名がついていない。

もちろん、それぞれの教科に学ぶべき内容があるのは分かります。

国語には国語の体系があるし、算数には算数の積み上げがある。それを整理して学ぶ意味は当然あります。


ただ、

教科の境目と、子どもの学びの境界は同じじゃない。

そこは、もう少し意識してもいいんじゃないかなと思うんです。


「どの教科を何時間増やし、どの教科を何時間減らすのか」という議論も大切ですが、同じ時間を使うにしても、それぞれの教科で学んだことがバラバラに存在しているのか、それともたがいにつながっているのかで、子どもの学びはずいぶん変わります。

学校が子どもたちに提供できる時間には限りがある以上、身につける知識やスキルをどうつなげていくのか、その結果として、どうやって子どもの「もっと知りたい」に火をつけるのか。

目を向けるべきなのは、そこなんじゃないかと思います。

***


理想と現実のあいだで


とはいえ、これもかなりの理想論。

実際にやろうと思ったら、時間割をどうするんだという話もあるし、教科書だって教科ごとにつくられている。専科の先生が増えてくれば、先生同士の連携も必要になる。

めちゃくちゃ手間がかかるのは、容易に想像できます。

だから、簡単に「教科横断にすればいい」と言えばすむ話ではありません。

ただ、それでも。

国語が3%減るとか、算数が4%減るとかいうニュースを見ながら、その数字だけで学びを切り分けて考えることには、ちょっと違和感があるんですよね。

未来の小学校や中学校の授業が、もう少し子どもの好奇心の動き方に近いものになったらいい。

今回のニュースを見ながら、改めてそんなことを考えていました。

そして、もう一言だけ。

学校だけで実現するのが難しいのなら、家庭だからこそできることもあるんじゃないかというご提案を。

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