「勉強だけじゃない入試」が、子どもを楽にするとは限らない

「勉強だけで人を評価するのは、もう古い」
教育の世界では、そんな考え方が少しずつ広がっています。
テストの点数だけを見るのではなく、学校で何を学んできたのか、どんな活動に取り組んだのか、周囲とどう関わってきたのか。そうした部分まで含めて、その人を多面的に見ていこうという流れです。
大学入試でも、総合型選抜や学校推薦型選抜といった入試形態が増えています。
私個人としても、ペーパーテスト一発で合否や序列が決まるより、いろいろな力や経験に目を向けるほうがいいと思ってきましたし、今も、基本的にはそう思っています。
ただ、迷いや心配がないわけではありません。
評価のものさしを増やすことは、本当に子どもたちを自由にするのだろうか。
この問いは年々、大きく、重くなっています。
2025年の春、Voicy の企画「週末プチ読書会」で『「ほどほど」にできない子どもたち:達成中毒』(ジェニファー・ウォレス)を、9週にわたって読みました。
もともとはアメリカで出版された本で、競争の激しい教育環境にいる子どもたちと、その親たちを取材したノンフィクション作品です。
一見すると困っているようには見えない。
能力も教育機会もある。
親も応援している。
なのに、「もっとやらなければ」「まだ足りない」と自分を追い込み、強いストレスや不安を抱えている。そんな子どもたちの様子を描いています。
なぜそんなことが起きるのか。
この本は、その背景を、子どもたちの気質やマインドセットだけでは片づけません。学校や受験、親の期待、周囲との比較、コミュニティの空気。そうしたものが積み重なって子どもたちを追い込んでいく過程を、かなり丁寧に追っています。
そして、読んでいるうちに、これはアメリカ固有の話としては読めないな、と思うようになりました。
週末プチ読書会から1年半ほど。
この本が描いた息苦しさは、日本でも無視できないものになりつつあります。
まさに今、あらためて多くの人に読んでもらいたい。
本を紹介しながら、読んで考えたこと、自分自身の子育てを振り返って感じたことを、3回に分けて言葉にしてみたいと思います。今回はその第1回です。
目が覚めている時間のすべてが、自分の価値を高める時間になる
アメリカの難関大学入試では、学力だけでなく、スポーツや芸術、課外活動、リーダーシップ経験など、幅広い実績が評価されます。
それだけ聞けば、すごく良さそうです。
幅広い能力を見てもらえるなら、そのほうが豊かで、ヘルシーじゃないか。
私自身、かなり長いことそう考えてきました。
しかし、『達成中毒』に書かれてあったのは、その裏側にある現実でした。
評価する領域を増やしていくと、子どもの生活のすべてが評価の材料に変わっていくという残酷さです。
実は、この指摘、かなり自分にも返ってきます。
子育てをしているなかで、子どもたちにはつねづね「クラスで1番、学年で1番、学校で1番、それぞれ胸を張れる趣味が3つくらいあるといいよね」と話していました。
「これなら自分は負けない」と思えるものがいくつかあれば、それが自信の源泉になる。ポケモンに詳しいといったメジャーなものから、他の人があまりやっていないニッチな趣味まで、いろいろな強みを持っているといい。その強みの組み合わせが“あなたらしさ”になる。当時は、そんなふうにかなりポジティブに捉えていましたし、今でも、この考えは子育ての信条のひとつとしてもっています。
実際、長男は小学生の頃からロボットに取り組み、中学生の頃には「ロボットなら学校では自分が一番」という自負を持っていたと思います。それが本人の自信につながっていた面も、たぶんあった。
でも、『達成中毒』を読んだあとで、この昔の自分の言葉を見返すと、少し引っかかりを感じます。
もともと、長男がロボットをはじめたのは、ただものづくりが好きだからでした。
本来、それだけで完結していたはずのものに対して、「この子の自信につながる」「この子らしさになる」という役割を与えていたのは、親である自分です。さらにはそれを、「一番になれるもの」「その子の強み」「持っているカード」として意味づけしていなかったかと問われると、答えに詰まります。
当時は、ちょうど大学入試改革の議論が本格化しようとしていた時期。
好きなことをコツコツ続けた結果、それがたまたま入試でも評価される。自分が望んでいたのは、たぶんそんな順番でした。でも見方を変えれば、自分のやっていたことは、大学入試から逆算して、小学生のうちから「好き」を決め、課外活動や実績を積み上げていくことと、地続きにも思えてくる。
はっきりした境界線がない両者の間で、気持ちは揺れ動いていました。
「入試に使えるからやる」のは行き過ぎだとしても、「自信になるから」「強みになるから」と、趣味に何かしらの効用を求めるところまでなら大丈夫なのか。親として介入してもいいのか。線引きはどこなのか。
答えは今でもわかりません。
ただ、ひとつ考えるようになったことがあります。
それは、「何をどこまで評価するか」と同じくらい、「何を評価しないで残しておくか」も大事なのではないか、ということです。

恵まれた環境が、逃げ道を減らす
もう一つ印象に残ったのが、教育環境が整っている子どもほどプレッシャーを抱えやすいという点です。
わが家でも、子どもたちにこんなことを言ったことがあります。
「あなたたちが努力できるのは、恵まれた環境にいるからだよ。その環境を生かしたほうがいい」
親としては、励ましているつもりでした。
挑戦したいと言えば応援するし、必要なものがあればできる限り用意する。何か面白そうなプログラムを見つけたら、すぐにシェアして教えてあげる。せっかく手の届くところにチャンスがあるんだから、生かしたほうがいいじゃないか。
今でも、理屈としては間違っていない気がします。
でも『達成中毒』を読んで、少し見え方が変わりました。
これ、言われる側からすると、結構しんどいのではないか。
なぜなら、環境が整うほど「できない理由」が減っていくからです。
機会もある。
社会の支援もある。
親も応援している。
もし、そこで結果が出なかったとしたら、最後に残る説明は「自分がやらなかったから」「能力が足りなかったから」になってしまう。
とりわけ、状況をよく理解できる子ほど、逃げ場を失ってしまうのではないか。
誰も悪くないから、降りられない
週末プチ読書会では、中学受験の話にもふれました。
私の住んでいる地域は中学受験率が高く、親が促すだけでなく、子どもの側から「自分も塾に行きたい」と言い出すケースもよくあります。
本人がやりたいと言ったから、親も応援しようと思う。
とても自然な流れです。
でも、半年、一年と続けるうちに、思ったほど成績が伸びないこともある。
本人が疲れているように見えることもある。
それでも、「ここまで頑張ったんだから」「もう少し続ければ変わるかもしれない」と思う。
子ども本人も、自分からやりたいと言った手前、「やめたい」とは言いにくいでしょう。
こういう状況を、読書会では、はっきりとした悪役がいない不幸と表現しました。
親が悪いわけでも、子どもが悪いわけでもない。塾だって、求められた仕事をしている。みんなそれぞれ、良かれと思って動いているのに、全体としては息苦しくなっていく。
誰か一人が明確に間違っているなら、その人を止めればすみます。
でも、みんなの善意や努力が少しずつ積み重なって苦しさが生まれているとき、どこにブレーキをかければいいのだろう。
だからこの本は居心地が悪い。
教育熱心な親を悪者にして終わらせてくれない。競争をやめれば解決、とも言い切ってくれない。「子どものことを思ってやっていることだから大丈夫」と安心させてもくれない。
競争的な環境から子どもを守りたいと思ったとき、親はどう関わればいいのか。
次の記事では、その話を書いてみたいと思います。
▼とても良い本です。読んだらぜひコメント欄に感想を寄せてください▼
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